前の記事でも触れましたが、中井正一に「委員会の論理」という文章があります。
この文章からは、中井正一が単に実践を重視しているだけでなく、19世紀末から20世紀のはじめにかけてのドイツ哲学を踏まえて、「論理」について考えていることが伺えます。
一八七三-八年にあらわれたジグワルトの『論理学』、七四年のロッチェの『論理学』、七六年のエルドマンの『幾何学の功利』、七九年のベルグマンのの『一般論理学』、八三年のカントールの『集合論』、九一年のフッサールの『算術の哲学』、九二年のエルドマンの『論理学』、九九年のヒルベルトの『幾何学原理』、一九〇〇年のフッサールの『論理学研究』、一九〇二年のコーヘンの『純粋認識の論理』、六年のカッシーラーの『認識の問題』、九年のミンコウスキーの『空間と時間』、一〇年のカッシーラーの『実態概念と機能概念』、同じくナトルプの『厳密科学の論理根拠』、一一年ラスクの『論理学』、一三年のアインシュタインの『相対性原理試論』、同じくフッサールの『イデーン』。
かくのごとく回顧してみる時、(略)論理学は巻を追うて一つの傾向をたどっているのを見るのである。私達が今論理学と言っている概念、すなわち変化的な現象を離れて論理には永遠の世界があるという考え方である。(中井正一「委員会の論理」『中井正一評論集』長田弘 編、岩波文庫)
「変化していく目の前の現象から離れたところに論理的な永遠の世界がある」、中井正一はこの考え方=思考の傾向は、”論理の一般大衆からの分離”をもたらしたと考えます。ちょっとした知識人批判にもなっています。専門家は論理を使うことによって世界観を構築する、これは気をつけなければならない。一方で、大衆がそれらの論理を完全には理解せず、専門家からだされた”表象”のみを受け取ってしまう。これもまた問題です。すなわち専門家は自分の論理の中で勝手なことをいい、大衆はその中身を精査せずに一般化してしまう。ちなみにこれと似たことをスペインの思想家オルテガ・イ・ガセットが言っています。(オルテガの『大衆の反逆』は1929年、「委員会の論理」は1936年(雑誌『世界文化』)、時代的に同時期といってもいいかもしれません)
中井は両者を批判するというよりも、そのことによって起こっている集団の協力関係の崩壊を危惧しています。実践するにおいては、一人ではできません。集団のなかで意見をぶつけあわない限り、実践というのは進まない、そう考えているのです。全てがシステム化されている現在において、これは意外と忘れられていますが、何かを実践するということは関係性を構築するという場合には、ダイナミックに関係性を構築していく必要があります。
すなわち「委員会の論理」では、集団が、それぞれの人間が勝手にバラバラに存在してまとまらない、そんな事態を問題にしています。極めて組織論的な問題意識ですね。システム化することによって、全体が見えなくなる、それがゆえに、みんなで問題に向かっていけない。こんなことは今そこらじゅうで起きてます。中井正一の使う言葉は一般的な言葉ではないですが、だからこそ新鮮にその提案を受け取れるということもあるかもしれません。
引き続き、中井にとっての「論理」とは何かについて考えていきます。