渡辺京二『無名の人生』

せっかくなのでもう少し渡辺京二さんについて書きます。

渡辺さんの初期の短い文章に『小さきものの死』というものがあります。この文章は、実体験を書いた短い文章で読む側にも強い印象を与えますが、渡辺さん自身にとっても、忘れがたい体験として残っていたようです。

吉本隆明さんのことを説明することは大変に困難かもしれません。大衆側に立ち、大衆を啓蒙しようとした思想家です。全共闘世代に大きな影響を与えた『共同幻想論』は国家を始めとして共同体の相対化を図った著作でもありました。渡辺さんは東京読書新聞の編集者時代に吉本さんの家に入り浸っていたそうです。

おそらく吉本隆明さんが「大衆の原像」として捉えた人々は、この国ではごく限られた人だけではないしょうか。多くの人は自分の周りの生活以外ところで何かをしようと努力しているように見えます。本書のメッセージはそのように、「ここではないどこか」に行こうとするのはやめたほうがいい、というところにあります。渡辺さんの生き方を振り返ることで、

渡辺さんがよく使うキーワードとしてコスモスという言葉があります。コスモスは『逝きし世の面影』で描かれた民衆には、ひとりひとりに無限に広がる共通世界を持っている。そう考え、その世界ををコスモスと表現しているのです。石牟礼道子さんはその失われたコスモスを表現できる稀有な文学者だったと渡辺さんは捉えています。石牟礼さんが名著『苦海浄土』で表現したのは、チッソの無責任さや科学技術の怖さなどではなく、失われつつある民衆のコスモスの叫びだったといえるかもしれません。

渡辺さんはニッチを見つけたほうが良いといいます。生態学的な意味においてのニッチです。生息する環境において生物が果たしている生態的な役割あるいは地位を獲得しろということですね。『無名の人生』で渡辺さんは世界には2つあって世界とワールドとコスモスがあって、ワールドは世界情勢などで言う世界。一方コスモスは環境に近いかもしれません。自分と周りの環境の関係性によって出来上がる世界です。渡辺さんが無名を生きるというのは後者の世界を生きるということです。

無名ではなく、有名にこだわってしまう怖さ、つまり、様々な情報に混乱して、自分の環境とは全く無縁のところで何かをやろうとしてしまう。これは危険なことですが、今はけっこう起こりやすい。インターネットをみると「あなたとコレには深い関係がありますよ」というメッセージにあふれています。でも実際にそれが自分の生活と関係していることはほとんどない。身の回りの関係性を豊かにするために「無名性を生きる」覚悟をする必要がある時代かもしれないなと思います。

 

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