本に戻る

本はこれからどうなっていくのか?
そんなことをよく考えます。

本は売れないけれど、いろんな工夫をするとまだまだ小さいな書店でも頑張れる。そんな新しい書店の活動を紹介した本もたくさんあります。いいことだなと思います。そんな動きも大いに応援したいと思う一方で、我々にとって読書という行為、時間の過ごし方が、どんなものなのかというのが中に浮いているような、そんな気がします。

知り合いと本の話をする場合に本=ビジネス書という方も中にはいます。読書会といったときにそういう人に囲まれると、そんな気になってしまうのですが、家に帰っていつも通り本を読んでいると、ふとした瞬間に違和感が生まれます。

毎日が忙しく、何かを達成しないといけないというゆるい強迫観念で本を読む。状況的には理解できるのですが、常に本が側にあり、いろんなつき合いをしてきた私としては、読書ってそんなものかという思いがどこかにあります。生活の中にモノとして「本」がある。そして「読書」という時間の使い方がある。共通感覚としての本がそういった意味において、すっぽり抜けてしまっている、そんな思いがあります。

津野海太郎『読書と日本人』は私のそんな感覚に、少し答えてくれるような本でありました。津野海太郎さんは1938年生まれの編集者で、晶文社という所の取締役こともあるようです。季刊の雑誌『本とコンピュータ』の編集長をしていて、電子書籍を単に否定するのではなく、新しい方向性に期待するような発言をされていた記憶がある。その程度の著者の記憶のもと、読み始めました。

この本は、日本人と本とのつきあい方を平安時代から初めて、現代までを追っていた本です。歴史的な事実を追うというよりも、時代の中で、読書という行為が変化していったことをやわらかな語り口で示しています。

この本は20世紀を読書の黄金時代と読んでいます。それまで、本というのはだれもが手に入れることのできるものではありませんでした。書物が安く、一般に提供され始めたときには人々は、その旺盛な読書欲を満たすために本を求めました。日本では関東大震災後の大衆雑誌と「円本」と呼ばれる安価な全集のブームがありました。書籍の大量焼失があったため、新しいものの供給を、という動きだったようです。(この時期に始まる大衆としての「読書人」の誕生は、近代日本の読者研究として興味深い研究が幾つかあります。いずれ紹介したいと思います。)

この時期の本は、今思えばだれもが読めるようなやわらかめの本もありましたが、文学全集や思想全集などは難解なものが多かったようです。それでも人々はそれらを買い求めました。知識欲への高まりがあり、需要と供給がマッチした時期ともいえるのかもしれません。何にせよ、この時期に出版流通システム、本を作って一般の人に届けるというシステムが出来上がりました。日本の特徴としては、円本ブームの影響もあって、初期の大衆読書人層に教養的な、確かに知識欲を持った人が多かったと言えるでしょう。

いわゆる「活字ばなれ」は、教養主義的なかたい本が売れなくなったことで、本が売れなくなったこととは少し違うようです。その時期を象徴するエピソードとして、本書は77年の一つのコラムを挙げています。

本の現状を端的に捉えるものとして、出版数の増加率の拡大があります。簡単に言ってしまえば、本にも消費期限があり、新しい本をどんどん売っていかないと出版が成り立たないという状態になっているのです。この状況から見るに、初期の知識欲を持って本を求めていた読書人層と、今、本を求める人には大きな違いがあるでしょう。事実、売れなくなったのはいわゆる<かたい本>で、ベストセラー呼ばれる本は今でも何百万と売れています。

津野さんはチェコの作家、ジャーナリストのカレル・チャペックの、忍耐強い「読書タイプの人間」は減っていき、ひと目で情報を判断し、時間をかけずに話の筋を飲み込む「視覚型人間」に変わっていくという話を引用しています。その話に続く、作家の津村記久子さんの話が印象的です。

津村の「咳と熟読」によると、いっとき本をはなれてインターネットに熱中した彼女はやがてネット情報の「瞬間湯沸かし」的な収集に疲れて、ふたたび本を読むようになったらしい。「情報」をいそがしく「脳味噌に注入」するかのごとき「飽和状態」のなかで「逆説的に、自分が本から得ていた主な栄養は「情報」ではないのだな」と気づいたというのです。

ここは本書のなかでも非常に印象深いところ。かなり後半ですが、これ以降の文章を読むためだけでも、この本を手に取ることをおすすめしたいほどです。

まさに読書とは経験だったなと思います。小さい頃に読んだ物語などは、そのときの周りにいた友達や住んでいる環境とつながりながら思い出されたりします。本格的に本を読むようになったとき、友人のすすめや、好きな本屋、大型書店に通うようになったことなど、自分自身を形作ってきた経験とつながってきます。本の内容もあのころ、ああいう本を読んだことが、今この本を読むことにつながっているという感覚。それが「読書」と「情報を得る」ことの大きな違いだと思います。私がかたい本を求めるのは、本たちと長くつきあうことによって生まれる、ゆっくりとした感覚の更新を楽しんでいるとも言えます。

津村さんのように「読書に戻る」(チャペックの言葉。印象深い表現です)ということはいくらでも可能な気がします。それはインターネットのような「情報」にはやはりないものでしょう。経験としての読書という観点から、もう一度本とのつき合い方を考える人が増えるといいなと思います。

いわゆる読書人が、忍耐強い人であるというチャペックの表現は、的を射ている気がします。少なくとも私は、自分には忍耐強い面があると思う。あらゆるものが情報としてわれわれの前に現れ、無理やり押し込められてくるような状況に対して、違和感を持ち、別の方法を選択することができる。その意味において、忍耐強よさは、今を生きる万人にあったほうが良い性質などかもしれません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です