文学論について多くの本を読んだわけではないですが、とてもいい本、いい書き手に出会えたと思ったので少し書き残しておきます。
日本の文学といったときに、もはやその土台が何なのかと問う人もいないだろうし、小説を読む人の大部分は楽しく読書ができれそれでいいと考えているのかもしれません。しかし、だからといって「文学とは何か」という問いが必要なくなったわけではないでしょう。
日本の近代文学の起点は江戸から明治の変化の中にありました。大きく文化が変わる中で、これまでの文語体的な書き言葉から、話し言葉に近い言葉で小説や評論が書かれ始めました。この文化の変化は日本人の意識の変化と密接に関わっており、中心にあるのは大きな矛盾や葛藤だったといえるでしょう。近代という括りで考えた場合に、日本に限らず矛盾や葛藤を抱えていると言えるでしょうが、日本は個人としての矛盾や葛藤が国家レベルでも同じような性質を持っていたと捉えることができるかもしれません。簡単にいってしまえば、それまで文化が培ってきた時間を無視しても、普遍的に成り立つ国家や個人が成り立ちうると思い込むことの矛盾といっていいかもしれません。確かに国家というシステムや人権という思想や個人の自由を基調とした平等が人間の生活にもたらしたものは多いですが、そればかりで人間は生きることの意味を見出すことはできません。生きている実感を得るためには関係のなかで自分が埋め込まれていることを感じることが必要であるでしょうが、その関係を充実させるのは、その場所における時間的蓄積が密接に関係しているはずです。これは「故郷」と呼ばれてきたものかもしれませんが、仮に生まれ育った場所としての故郷を失ったとしても、生きることを解釈することのバックグラウンドになる時間的な蓄積があれば、自分の生を解釈するための土台となるだろうと思います。日本の文学は初めからそれらの喪失、すなわち「故郷喪失」を前提として始まったといえなくない。そして、その自分の足場を確かなものとして受け入れることを難しくしている状況がとても長い時間続いていることに自覚的になることはどの時代を生きる人間にとっても大事になるだろうと思います。
漠然と考えていた上記のことをはっきり自覚させられ、また、非常に明確に整理されているのが『アフター・モダニティ』という本です。新文明学というシリーズの2巻目の本であり、近代日本の思想と批評という副題がついています。著者の先崎彰容さんと浜崎洋介さんはどちらも相当に力のある文章を書く方だと感じました。先崎さんは1975年生まれ、浜崎さんは1978生まれなので、比較的私と世代が近いですが、近しい世代の人がこのようなことに関心を持ち、このような文章を書くことに、強い興味を覚えるとともに、大きな刺激を受けることができました。
この本で語られていることで重要な点を挙げるとすれば、それは小林秀雄についてでしょう。この本に含まれている浜崎さんの小林秀雄論は非常に優れていると思います。浜崎さんは芥川龍之介の死から昭和初年代の文学的状態を描くことで、小林秀雄の批評がなぜ生まれなければならなかったかを描き出します。芥川が生きた時代は、古い文学的感性が失われ、大衆的なものが立ち上がってくる時期でした。大正の時代にあった自由な空気が、大震災を経て少し変わっていく。そして昭和に入ってまもなく、芥川は「ぼんやりとした不安」を理由として、自死に向かいました。近代以前の知的教養を深く身につけていた芥川にとって、近代的な精神に期待を寄せたところが、すべての関係性が自由ではあるけれど空虚でリアリティを失っていくことに耐え切れなくなったと捉えることができるでしょう。小林秀雄の文壇デビュー作は「様々なる意匠」という小林を代表する文章ですが、その前に「芥川龍之介の美神と宿命」という芥川の死後に書いた文章があります。小林にとって、そして日本にとっての批評の誕生が、芥川の生と死につながり、そのことを超えていこうとする小林の態度が「様々なる意匠」に表れている。浜崎さんの文章を読んでいるとそんな印象を持ちます。「様々なる意匠」で小林はマルクス主義など、時代を風靡した様々な意匠を挙げて、それらの「理論」が「実感」にたどりつくことがないことを語っています。そして作品に出会う読者の「宿命」から、批評の可能性を悟ります。小林秀雄の批評は、自分自身の感じたことを書き連ねているにすぎないように思えますが、この時代において、あるいは日本という文化的背景を考えたうえでそうすることの重要性を踏まえたうえでの意識敵な選択だったといえるでしょう。浜崎さんはそのような小林の態度を”己の言葉を「生活の実情」から切り離さぬという覚悟”の上で選択されたものと結んでいます。
小林の語ることは不思議と今を生きる我々に届くものだろうと私は考えています。それは、本質的であるかのように見える理論(ほとんどの場合それは西洋起源です)に拘泥することで見失う何かがあることを自覚すること。そして、それを超えて自分にとっての言葉と出会うことの重要性を知ることではないでしょうか。
浜崎さんや先崎さんについては今後も取り上げ見たいと思います。