久しぶりに『「聴く」ことの力』から考えをめぐらしてみます。「臨床哲学」は、特定の誰かの苦痛と向き合う哲学と言えます。ところどころ、あるいは最後の章のやりとりから、臨床というのは主にケアの領域の現場を指しているように思えます。
これまで中村雄二郎さんを通して、哲学が人の生きる基盤を見出すということがありうることを見てきました。中村さんの「臨床の知」と鷲田さんの「臨床哲学」は重なるところもありますが、違いも大きいです。共通点でいうと、客観性に偏りすぎる知に対して、別の知のあり方を探そうする態度があります。鷲田さんは『「聴く」ことの力』では、主に他者と出会うことを主に書いているように読めます。他者の存在を知り、出会い、迎い入れる。そんな流れで話はすすんで行きます。かけがえない存在としての他者と出会うこと、また、それを欠いているがゆえに、喪失感のそこに沈んでしまう。そのような存在として人間を考えています。
生きる意味を失ったような感覚に陥ってしまうこと。人間には意外に頻繁におこることなのかもしれない。三十数年生きてきて、今強くそのことを感じます。もちろん、自分自身がそのような感覚を感じたこともあるし、身近な人がそのような、なかなか理由がはっきりとしないままに、生きている実感を失っているということを感じることが会いました。単純に、未熟さゆえに起きることだと、これまでは無意識のうちそんな風に処理してきたのでしょうが、おそらくそうではありません。そういう意味では全ての人間は未熟であるということができるかもしれません。パスカルが考えたように、不完全であることが、人間であること、というのが、なんとなく積極的に受け入れて考えたくなったのもそのような変化があるからかもしれないと、この文章を書きながら思いました。
鷲田さんは寺山修司が「だれも私に話しかけてくれない」という遺書を残して自殺することだってあると述べていることをひきながら、生きる実感、自分が存在するという確からしさに、他者が深く関係していることを表現しています。他者は単に存在するのではなく、働きかけとして存在しているのです。
鷲田さんは精神科医の木村敏とR.D.レインの考えから、他者と自己について考えています。なかなか説明が難しいところですが、木村敏について語るところで、鷲田さんは自己と他人が居心地が良い「間」や「タイミング」があるというような話をしています。自分自身のかけがえのなさを感じるための他者との関係は、常に確かなものというわけではありません。他者との関係に問題を抱えることによって、自己に欠落を感じてしまう。R.D.レインも精神的な不調をそのような面から捉えています。自分が確かの存在であることを確認するために他者という存在を求めるそんな面が人間にはあります。宗教が保証しているのは、一人であっても、自分の存在を肯定してくれる、絶対的な他者の存在である。R.D.はそのように述べています。(仏教という宗教はこの問題は哲学的にクリアしようとしているようにも見えます。またどこかで考えてます)
我々が自分の生きる世界を獲得するために、様々なものに意味を見出していく。その時にある種の偶然性をもった他者とのやりとりが重要になってくると言えます。自分が誰かにとっての他者であり得ると感じることが、自分の中での意味的世界を統合する要素になっているのです。精神的な病というのは、そのような統合を欠いた状態と言えるかもしれません。
臨床の現場においては、他者として、どのような形で「苦痛を持って存在する」人たちに接すれば良いのか。『「聴く」ことの力』では後半に向かって、そのような問いが立ち上がってきます。最終的にこれに対する明確な回答があるわけではありません。ある意味では、臨床家を戸惑わせることもあるかもしれません。しかし、関係をつくることというのは、戸惑いもありながらも進んでいくものだと、そう思えるだけでも確かな一歩です。他者がいることから始めること、すなわち聴くことから始めることは、意味に対して開かれていくこと言えます。