中村雄二郎さんについていくらか書いてきましたが、中村さんの哲学的原点はパスカルと三木清でした。そこも非常に面白いところです。
中村さんを読むようになって、パスカルという存在が気になってきました。そこで色々読んでみたり考えてみました。パスカルの主著であり有名な『パンセ』を読むだけでも、パスカルがいかに奇妙な人間だったかわかります。『パンセ』はパスカルが晩年に著作としてまとめようとして、まとめられなかった断片を、死後編纂するというかたちで作られました。いずれ書きますがパスカルが生きた時代は、キリスト教から離れて、自然科学的に人間を捉えることが始まった時期でもあります。その中である意味ではパスカルは自然科学、数学の可能性を確信しながら、キリスト教的に苦悩したと言えます。
パスカルは1623年に生まれ、1662年に39歳で死んでいます。数学者として重要な仕事を残しています。哲学者デカルトとは同時代であり、それぞれに交流があったかはわかりませんが、デカルトはパスカルの数学的な才能を認め、パスカルは晩年近く、哲学と信仰の面からデカルトを批判的にとらえていました。
パスカルの哲学は明晰であることから距離をとろうとしています。以前の少し紹介した三木清が、パスカルについて書いた『パスカルにおける人間の研究』は、パスカルが人間を不完全な存在と捉えたことを掘り下げています。人間の明晰な部分を議論することによって、「人間の研究」が可能になるとは考えない。これがパスカル、三木、そして中村雄二郎に通じる哲学的態度であると言えます。
パスカルには「中間者」とよばれる概念があります。人間は無限(≒神)というには虚無であり、虚無というにはそれぞれに一つの世界を持っている。すなわち人間は無と全の中間者であるというのがパスカルの人間理解です。人間は自然の一部として、消えていく運命にはある、物理的存在である。一方で確実性、必然性を求めることで全体を獲得する、そのような可能性を持っている、それが人間です。ゆえにパスカルは「考える存在としての人間」を称えています。考えることが人間の特性であるわけです。
これは『パンセ』有名なフレーズ、「考える葦」とつながる考え方ですね。デカルトが人間を一つの機械のように捉えようとしたのに対し、パスカルは人間を自然の一部と考えていた。やや乱暴ですが、これが三木清という日本で哲学をすることを意識したことの大きな理由であるといえるでしょう。(三木清が、西田幾多郎という日本を代表する、あるいは日本的な哲学を唯一展開した哲学者である師として、尊敬していたことも、この部分とつながります。またいずれ書きます)
『パンセ』の有名な「考える葦」の部分を引用してみましょう。
人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すには十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
だから、われわれの尊厳のすべては、考えることの中にある。我々はそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。(ブーレーズ・パスカル『パンセ』,前田陽一・由木康訳,中公文庫)
この部分は美しく、声に出して読むとなかなか心に響きます。『パンセ』はそのような、短いけれど、何か真剣に考えさせられるような断片でできています。キリスト教の信仰に関する部分も多いですが、多くは、人間の不完全性を巡っているとも捉えることができます。
人間が不完全であることを理解することで、生きることが確かになる。これは宗教的なレベルではいたるところに見られる要素です。哲学もそれを当然扱うはずですが、近代に入って哲学が発展していくにつれ、実際にはそのような「生きる」という所から離れていきました。その一方でニーチェなどを始めとした反哲学者が出てきた。彼らがやろうとしていたことは、以外にパスカルに近い所があるのではないかと私は考えています。