中村雄二郎 現象学からの説明

中村雄二郎さんについていくつか論じてきましたが、まだまだ続きます。

中村さんの主要な哲学的関心は近代的な思考の限界をいかに指摘するか、でした。これは、科学を蔑ろにするということとは全く違います。むしろ、科学的なもの手段として有効に利用するために考えているといって良い。本来手段であるはずの近代科学は、取り組み自身が目的化したり、その思考の発達が、全体を考慮せずに独自の発展をするために、批判的なものを受け入れることもなく、進んでいく危険性をはらんでいます。例えば、原子力の技術の基礎となっている物理学も、その応用技術も、原子爆弾というものを生み出すことによって、その倫理的な問いかけが生まれますが、探求自身は倫理的な問いかけとは全く無関係に深めていけます。社会科学は本来は自然科学的なものとは異なります。しかし、社会科学もわれわれの”素朴な問いかけ”を無視しがちなところでいくと、「科学的」な落とし穴にハマっているといえるかもしれません。これはある意味、専門分化のワナの重なっています。

ある種の批判的な土台としての哲学と、近代的な思想の外側にある世界の秩序を記述する方法を探すというのが、中村さんの探求の道筋だったといえるでしょう。哲学の知の基本は「無知の知」である。と中村さんはいくつかの著作で述べています。ソクラテスは、独断的に自分の知識を信じ込んでいるソフィストへの論争をしかけるために、「自分が知らない、であるがゆえに優れている」と語りかけました。これは、専門分化することによって思考停止にハマってしまうことへの警告であり、現実へ目を向けるために、対話的思考の重要性を主張する時の一つのレトリックです。知ってると思うから知ることが出来ない領域がある、知らないが故に知れることが多い。簡単に言えばそういうことですね。

中村さんの哲学的態度に、哲学の領域では有名な現象学の態度に近いものです。現象学は、ある思考の枠組を疑う場合に、どんなことを考えれば良いかを精密に考える学問でありますが、様々な広がりを持って今日まで、思考が重ねられています。
『臨床の知とは何か』という中村さんの著作に、現象学に関する短くわかりやすい解説が乗っているので、これに倣って現象学に関して少し説明してみましょう。

現象学の祖であるフッサールが問題にしたのは、学問を単なる<事実についての学>とする実証主義的な傾向でした。これによって学問が<生>に対する意義を失ったと述べています(『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』)。フッサールが<生>に対する意義が失われたというときには、学問が人間の生活=日常生活を成り立たせている具体的な世界から遠くなったという意味です。この原因として挙げているのが、<物理学的な客観主義>と<超越論的な主観主義>の分裂・分離です。すなわち、主観と客観を分けて、「考える主体」を特権的な地位において、(物理学のように)客観的に世界を記述することが学問であると考える新しい方法に、問題があるという指摘です。
簡単にいうと現象学がやろうとしたのは主観と客観の分離を疑い、現実世界における我々の経験、現実と人間との接点が、相互主観的なやり方によって成り立っている考える事でした。中村さんはこのような現象学的な関心を引き受けながら、哲学の問題を「共通感覚」という身体性、人間の広い知覚と、文化的な時間生を考慮にいれた問題として、考え直したと言って良いでしょう。フッサールの現象学は論理性の強いものでした。一方、例えば中村さんが「共通感覚論」で提示されたの問題は、コモン・センス=良識という、文化的・習慣的な領域を含むものでした。日常における経験を扱うためにはどのような知のあり方があるのかという点において、中村さんは、文化的な領域、医療や宗教、制度についても考察できるような知のあり方を示す議論を展開してきました。中村さんは、哲学者としては、非常に広い関心領域を持っていて、様々な現実問題についても考察を行っています。そこでは社会学や、歴史学、宗教学、心理学などの幅広い知識を援用しています。それでも中村さんが哲学者として自分を認識しているのは、現象学的な問題意識を土台にし、かつ「無知の知」という「態度としての哲学」を意識したというのも一つの要因です。

『臨床の知とは何か』では現象学について説明したのち、マイケル・ポランニーによって、考察された人間の経験ベースにした知識・知恵について、論じています。ポランニーは人間の知識が、高度に個人的であることを深く考察した人物です。知識がバラバラに存在して、それを「私」が知識として持っている。ポランニーは知識を得ることをそのようには考えませんでした。ポランニーは、安易に観察対象を自分から切り離すことによって、普遍化どうかわからないものを普遍と思い込む危険について考えました。これは、中村さんが考えていたことと近いですね。知るということは普遍であると思いこむのではなく、自分とその対象の関係の中においてみる、そのような行為であるとポランニーは言っています。ある意味では、私と対象がある世界を受け入れるようなことがそこで行われているといってよいでしょう。

科学的な知見を身につけることだけが、学習として考えてしまいがちですが、実際には、そうではない領域があるはず。中村さんが『臨床の知とは何か』を始めとした著作で描こうとしたのはそういうことでした。科学的なことだけが知識ではないと、そう言われれば、反論する人は多くないと思われますが、それ以外の領域の知がどのような働きを持つのかを明確に応えられる人は少ないでしょう。いま一度、そういった領域が縮小することの弊害と、その他の知の可能性ついて考えてみる必要があります。引き続き『臨床の知とは何か』から考えていきたいと思います。。