日常において統合される感覚ー『哲学の現在』中村雄二郎

中村雄二郎の『共通感覚論』について書いていこうと思っていますが、その前に以前もとりあげた『哲学の現在』から少し取り出してみます。

『哲学の現在』は中村さんがなかなか本が書けなかったときに、話しことばで書いて、それを修正したと述べています。そして、できる限り、固有の哲学者の名前を出さないことを心がけたそうです。そのために、読みやすくはなっていますが、哲学をわかりやすく解説したというわけではありません。あくまでも、哲学的な問題意識にもとづいて、語るべきことがなんであるのかを巡っている文章です。根底ににあるのは、生きるための土台としての哲学、変化する時代に対して、現状を確かに受け止める土台となるような考えはどんなものか、という態度です。

『共通感覚論』における「共通感覚」は、ぱっと見、人々が共通しもっている感覚=コモン・センス=常識かな、と考える人も多いでしょう。それも間違いでありません。ただし、コモン・センスが「常識」と把握される以前に、アリストテレスがコモン・センス(センスス・コムーニス)として定義していました。その時の五感を統合するための知覚としてのコモン・センスを考えていました。視覚や聴覚とは別にそれらの感覚を統合するような働きがあるだろうと考えて、コモン・センスという概念を設定したのです。『共通感覚論』ではアリストテレスのセンスス・コムーニスが常識または良識としてのコモン・センスになっていった流れも書かれています。

『哲学の現在』の中の「感覚と想像の働き」では「日常生活のなかの知覚の不思議」が簡単な言葉で、哲学的に語られています。

視覚や聴覚、触覚はそれぞれ個別に、外部からの情報に反応します。一方で我々が日常生活で感じることは、より統合された形として知覚されます。例えば、高い山の頂上で夜明けをみるとき、私たちは名状しがたい感じ=フィーリングを得たりします。これは見ているものは視覚ですが、その「感じ」を作っているものは視覚にだけによるものではありません。

また、いつも歩いてる道を、注意深く観察してみると、普段は気づかなかったものがたくさん見えてくるというのは誰にでも起こります。我々は見ているもの、あるいは見てからそれを「感じる」まで持ってくるときに何らかの選択をしているわけです。この点に関して特に脳科学などの知見を借りるまでもありません。我々の中に感覚を統合し、何かを判断するまでに至ります。

ギリシャ語で理性と訳されるロゴスは「集め」、「比較し」、「秩序立てる」働きを指します。我々の理性=知覚はその意味では、感覚とそれを統合する感覚によっています。そしてその統合作用は過去の経験の影響を強く受けます。これは人間の生活にとって欠かざる特徴と言えます。過去の経験に基いて、自動的に感覚が統合されて、判断できるということがなければ、我々が日常生活を営むはけっこう大変です。色んな情報をその都度、秩序立てて行く必要が出てくる。また、人間はことばによって現状を理解する動物でもあるため、我々の日常は、あるがままから離れたところで構成されていると考えたほうがよいでしょう。

日々の生活においてすでに私たちの知覚はさまざまな感覚印象を選び、秩序立てることによってあるがままとはちがった新しい世界、再構成された生活世界をつくり出す。それは意味をもち組織化された世界であり、私たち人間の文化的所産とくに言葉によって支えられ、強化されているものである。実用手的に物や人を識別するときだけではなく、景色や情景などを美しいと思って眺めるような場合にも、私たちは意識せずに、必ず景色や情景を種分けすることばを探し、それを心のうちで発しているのである。そのことばやいいまわしは、使い古されたきまり文句であったり、誰かの小説のなかで印象的に使われていた表現であったりすることもある。いずれにしても私たちは、そのようなことばやいいまわしをとおして景色や情景を見、知覚しているわけである。(中村雄二郎,『哲学の現在』,1977,岩波新書,強調は引用者による)

『共通感覚論』ではこのようなテーマについて深める本になっています。現在の社会が視覚優位になっていること、共通感覚からみて、記憶・場所・時間がどのようなものかを考えていく。いわゆる専門分化された哲学では、扱われにくい、扱われたとしても、一般の人からアクセスしにくいようなテーマを、中村さんはまとめた形で取り出しています。日常生活に近いところの「哲学」のひとつの形といえるでしょう。