さて折にふれて、自分がなぜ文章を書くのか、あるいは書かざるをえないと感じているのかを書いておこうと思います。本を読むときには序文というのがあります。小説なんかにはないもののほうが多いでしょうが、論文には序文は大事な箇所ですし、エッセイなどの散文形式になると、序文がある割合はぐっと高くなるのではないでしょうか。私はこの序文というのが割と好きなのです。なので、このブログの序文というのを何パターンか書き続けてみようと考えたりしています。
さて、書くことは特殊な行為だと思います。私はおそらく、他の人と比べて時代の変化、それに伴う変化に対して鈍感なところがあると思います。というよりも、今を生きることに敏感であることに、一言ではいいがたい危険のようなものを感じ、どうにかそこから逃れる術を探している、といった感じかもしれません。一人の人間が一人の人間であることは、長い時間をかけて作られてきたものです。私たちが生きている社会は”今、この瞬間”の情報に溢れています。しかし、ある人が別の誰かにとって特別な人になるには、”今、この瞬間”の情報だけでは十分ではありません。“今、この瞬間”がありながら、その連続性の中を生きる、本来当たり前のことを意識しないといけない、そんな時代であるのかもしれません。
「記憶のつくりかた」というタイトルはそういう連続性をテーマにしたいと思ったからです。自分自身の内側の声に耳をすませつつ、外に開かれていくために必要なものは、簡単に理解できるようなHow-to的な情報とは程遠い、難しくてすぐに離れてしまいたくなるけれど、なんとなく気になってしまう、そんな内容なはずです。そうやって時間をかけて気になってるものとつきあっていくことを意識的に日々の生活の中に潜ましていると、だんだん自分の記憶が作られていって、自分と仲良くなりながら、世界と対峙できるようになっていくでしょう。
自分と親しくなりながら、それでも外の世界とつながる方法は確かに存在しています。何をおいても本を読むこと。これほど我々が時代に振り回されることを助けてくる存在はありません。そして本というのは、存在としてとても多様なものなのです。
このブログで取り上げる内容は読書を通じて得られた何か、です。本を読むということは、基本的にはパーソナルなものです。だから、取り上げる内容は私が読書を通して感じたこと、気になったことに過ぎません。しかし、人間は本質的にパーソナルでありながら、多くの、その他の人々とつながっていると私は思います。読書という行為は、私と、私以外の人との関係に影響を与えている、そんな風に考えているのです。取り上げる本は基本的にはおすすめしたい本ではありますが、必ずしも、その本を読んでほしいと考えているわけではありません。本と接するときの構えについて、いくつかの提案をしてみたい、そんな思いで取り上げる内容を考えています。
もしかしたら「本ばっかり読んでいても自分なりに経験しないとダメ」と言われたことがあったり、そう思うから本はあまり読まないと考えている人もいるかもしれません。しかし、おそらく本を重要な友達と感じている多くの人たちにとって、この言い方は、根本的なところで違和感があるのではないでしょか。なぜなら読書もその人たちにとって、かけがえない経験だったからです。一つの本と出会って、自分を構成する要素が大きく変わったという経験がある人がいるならば、それは生きてきた歴史のなかでの自分なりの転換点として、人との出会いや、旅先での経験と同列に、記憶の中に大きな位置をしめているに違いないからです
(加筆修正:2019/8/4)