鶴見俊輔さんについて、再び『期待と回想』の中から少し書いてみます。この本では「方法としてのアナキズム」をテーマにした章があります。アナキズム一種の政治的な立場のように思われますが、そのあり方は非常に多様であるように思います。国家という形式に対して、あるいは国家という大きな主体による支配というものに対抗する運動と捉えられがちですが、アナキストといった時には、もう少し個人として積極的に選択していく、というラディカリズムが感じられます。運動するために共有する原理としてのアナキズムと、個人の心情としてのアナキズムの2つがあると単純化してみると、この両者は両立、共存はできない気がしてきます。
鶴見さんがアナキズムに共感しているように見えるのはどちらかということ後者のあり方を肯定しているように思います。自らが注目し、実践もしたサークル運動を、鶴見さんはアナキズムの一つのあり方だと考えていました。鶴見さんの言葉に「私たちのサークルは、学問における権威主義から離れていく一種の遠心力としてこの十五年を過ごした」という言葉ががあるように、鶴見さんにとって戦後、アナキズム的考えが重要になったのはアカデミズムにおける権威主義に対抗する態度として一つの理想たり得たからでしょう。鶴見さんにとって、この権威へのまなざしは、プラグマティズムの創始者であるチャールズ・パースの影響や、それをベースにした日本の戦中・戦後の分析を通して繰り返されてきたものです。鶴見さんはパースの考えを「マチガイ主義」として強調しました。完成した体系が存在するのではなく、その体系のある部分がまちがっていることに着目して洞察を加えていくという方法にこだわった。鶴見さんはアナキズム、あるいはサークル運動を始めとした大衆のポジティブな活動に対して、見出していたのでしょう。鶴見さんが体系に対してついて懐疑を持ち、方法というところへ向かおうとすることについてこんなことを言っています。謙虚な言い方になってますが、「マチガイ主義」的な発想です。
体系ではなく方法という考え方はたしかにありますね。体系をつくる能力がないからではないですか。体系というのは常に未完成なものだという自己弁護があるんですよ。方法としてとりあえずやっている。それである程度のことができたとしても未完成な体系にすぎない。これが最後の体系だ、というものに対しては疑いをもつんだ。一つの立派な体系をつくろうという側にはまわらないんだね。(鶴見俊輔『期待と回想』,2008年,朝日文庫,p339)
繰り返しになりますが、アナキズムが政治的な側面を持ちながら明晰さから距離を取り、権威主義に陥ることを避ける態度だったといいかえることもできます。いわゆる国家論に与せずに、活動の政治的な側面を多様に論じていくことは、現在においても重要です。それをアナキズムというと誤解を受けるので危険な感じもしますが、鶴見さんが示したような心情があると自覚することは、活動しながらそこに過度に入れ込んだりせず、プラグマティックに展開できるというプラス要素があるしょう。