「スピノザの無限」をめぐって 柄谷行人『言葉と悲劇』

高校生に読んでずっと印象深く残っていた文章を久しぶりに読んだので少しそれについて考えてみたいと思います。柄谷行人『言葉と悲劇』のなかの「スピノザの無限」という文章です。柄谷さんは私より少し上の世代にとって影響力の強い批評家です。当初は非常に優れた文芸批評家であり、ご自身でもそのことを強く自認していた節がありますが、だんたんと思考が哲学的になっていって、ある時期以降は、哲学者、思想家、思想史家のような印象が強くなっていました。
『言葉と悲劇』は講演集です。柄谷さんの特徴は、自由かつ分析的な批評にある、と私は感じています。柄谷さんは批評家として、いわゆるアカデミックな哲学者の方法を避けているようにも思えますが、話の組み立てにおいて、概念をうまく整合させて、事象を説明可能にしていく流れが非常にスムーズです。これはある意味で、論理的な分析性と、批評性をうまくバランスさせた稀有なあり方だと思います。柄谷さんはたまにポール・ヴァレリーというフランスの作家の話をしますが(大きく影響を受けたとどこかでかいていました)、確かにヴァレリーを理解しやすくしたような感じがします。ヴァレリーはどちらかというと詩人で、評論をするときも詩的な方法をとっているように見えますが、意外に分析的なところがあります。一方で柄谷さんには詩人的な要素はほとんどありません。それでもヴァレリーの方法を柄谷さんなり追求したのかもしれないな、と思うときがあります。
私が体系的、図式的な思考を重視する一方で、そのような思考からなるべく距離をとりたくなるのは、読書が深まっていくスタート地点において、柄谷さんの批評に触れていたからだと思います。柄谷さんにとってのヴァレリーが、私にとっては柄谷さんだったというとちょっと大げさですが、そのような影響関係にあります。そしてそのように柄谷さんが選択している「方法」に惹かれた人も多かったでしょう。柄谷さんの文章は両義的な面を残している文章も多い。特に初期の文章や『言葉と悲劇』での講演などでは、本質を捉えながらも、それが固定化されない、批評的な、あるいはエッセイ的香りがして、とても影響を受けました。

「スピノザの無限」について少し紹介したいと思います。この講演(文章)の中で柄谷さんはある文章を引用しています。非常に有名な文章らしく、その後私も別の本で引用されていたの見た記憶があります。それは以下のようなものです。

<<故郷を甘美に思うものは、まだくちばしの黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものは、既にかなりの力を蓄えたものである。全世界を異郷と思うものこそ、完璧な人間である>>

柄谷さんはこの言葉をエドワード・サイードの『オリエタンリズム』から引いたきたようです。サイードはアウエルバッハから引いていて、アウエルバッハも引用していました。この文章は12世紀のスコラ哲学者、聖ヴィクトル・フーゴーが残した言葉です。(フーゴーは『学習論』という著作を残していて、この本は読書論になっています。様々な面で面白いところがあり気になる人です)この言葉は本当に印象深くて、ずっと自分の中に残っていました。哲学・思想の領域でも、なんとなく、はかない感じのする考え方があるものだと感じましたし、実はそういった考えこそが重要なんじゃないかとも思った。

柄谷さんはここでスピノザが「全世界を異郷」と思う、「完璧な人間」に属するとしています。表題にもあるスピノザの「無限」は神のことを指しています。柄谷さんはスピノザが、<共同体に属するという人間の条件>を超えてを考えることを戒めたと捉えています。神の存在を設定することによって、安易に外部があると思わないこと。その内部についても、その限界性に自らか気づいていくこと。はっきり書かれていませんが、これがスピノザが全世界を「異郷」と思う「完璧な人間」とする理由でしょう。デカルト、スピノザ、そしてパスカルは今の哲学にはあまりない、神を無限を設定することによって有限な存在を考えるという感覚があります。スピノザによる人間の限定は外部を設定することの不可能性を示しているといっても良いかもしれません。無限をめぐっては、17世紀における自然観の変化ベースになっています。その時期において、神と人間の関係、あるいは人間という存在の自由性を考えることができたのだろうと思います。
ここ最近、私はパスカルに少し囚われているのですが、そこで私がもった感覚はこのときにスピノザを読んで感じたこととよく似ているかもしれない。そんなことも思ってちょっと書いてみました。