以前、中井正一のことを少し書きました。中井さんはその後これといって話題にならないようには思いますが、『美学入門』は今でも書店にならんでいるようだし、中公文庫版の『美学入門』は2010年に出版されています。これはなんとなく不思議な感じがします。中井正一は、いわゆる西洋の、体系化志向のある、形而上学の代表である美学とは異なる観点、あるいは語り口で書かれています。中井さんにはカントからヘーゲルに至る美学の流れと、その後のフッサール、ハイデガーなどにドイツ哲学にも言及があるので、様々な考察が会った上で、色んなものが削り落とされたのが『美学入門』と言って良いでしょう。
すなわち『美学入門』は美学という学問への入門というよりは、美に関するやや哲学的なエッセイと理解したほうが良いように思われます。しかし、これがエッセイ的な要素が強いために、どのような文脈でこの本に接すればよいのかが難しくなっているように思います。『美学入門』を始めとして、中井さんは芸術および美の時間性、歴史性を重視しています。多少、弁証法的に現在・過去・未来が形を変えていくことをないがしろしてはならないというメッセージが潜んでいます。それは普遍的に言えることですが、我々が時代性の感じにくい世界を生きていることがそれを理解することを艱難にしているように感じるのです。
今我々が生きている世界は、この過去が変化して現在を形成しているという感覚が非常に薄くなっています。しかし、過去をまったく意識しない現在というのはありえません。芸術とはなんなのかについて、素朴に「キレイだな」と思うだけのものを省けば(それは芸術とはいい難いと思いますが)何かしら文脈と、それを支える感覚があるはずです。
中村雄二郎さんについて述べたときに「共通感覚」話を書きました。やや偏った言い方をすると共通感覚はイメージを統合するために、複数の知覚を組みわせることを指しています。この統合のやり方について、社会全体で共通する何かがあったということが、社会活動や芸術を支えていたのだと考えることができる。これは中井さん美の歴史性に対する説明と通じるところがあります。
我々は美や芸術を考える際に、ある種その裏にある共通感覚、その共通感覚の歴史的な変遷を自覚しない限りにおいては、その場限りの芸術の提示を受け、それをうまく感受できずにモヤモヤするということが起こったりする。中井さんは美に関することについて、エッセイ的な方法で、このことをうまく語ったのだと思います。それは以前も書いたように、在野の知識人として、農民にカントについて講義をするということを通して、身につけたもの部分もあるでしょう。中井さんが語った中身についても私は非常に興味がありますが、何よりもその姿勢と、エッセイ的な方法を何とか引き継いで、別の形で自分のものにできないかと思うのです。であるがゆえに、中井さんにとってはほとんど終わりに近かった『美学入門』は、いつでも私のスタート地点として存在するのです。このように、一つの時代が終わり、新しい時代が始まる、そのような形で「考えたこと」がつながっていくことを通じてしか、我々は自分が生きている世界の「時代性」と向き合うことができないのではないでしょうか。様々な知識人が「もう古い」と無意識に切り捨てられていくわけですが、その切り捨ては無自覚であった場合にはどんどん「我々性」を捨てるばかりで、文脈の持たない個人でしかいられなくなる。できれば私がそこから自由になる過程をエッセイという形で残していきたいと思うのです。