割りと直感的な判断ですが、今の日本において、コミュニケーションをする上で地域差や世代を全体にしないと、非常に表面的なところでお互い探り合っているような、どこか、物足りなく議論が深まらない感じがします。
一つには現状を見る時に、やはり人それぞれ、歴史的な流れの上で考えていて、ある人には現在が、危機的な状況に見えるし、ある人には、安定していてできれば変わってほしくない、ある人にとっては「日本」とか「時代」のことはどうでもいい、感じです。それだけ見るとおかしな状況ではありませんが、何か共通認識を得ようとしていくなかでは、何らかの記述が必要になってくるように思えます。
こういう時に、だれを読むべきかを考えた時に私の頭に浮かんだのは、鶴見俊輔さんでした。鶴見さんは色んな要素がありますが、◯◯主義や、◯◯イズムということを主題にして文章を書くような人ではない所が面白く重要なところです。人びとの「見方」や「態度」を問題にしている。それもやはり思想なのです。精神史、という言い方もできると思いますが、積極的に精神史を記述していくこと、それが今、求められているのではないでしょうか。
以前に鶴見さんがアメリカの人類学者のレッドフィールドの影響を受けて、「期待」の次元と「回想」の次元を分けて考えるということを書きました。これは、鶴見さんが「伝記」に対して、過去を描く手段として、記述の方法として高く評価しているという話でした。鶴見さんにはいくつかの伝記もありますし、有名な『転向研究』、『戦時期日本の精神史』といった著作があります。
鶴見さんが歴史に対して見ようとしたことの一つに、「何がそうさせたのか」を考えることがありました。
転向研究では、戦前に、社会主義的な思想を持って国家を否定するような発言をしていた人が、戦時統制の中で考えを変えていったことを問題にしました。ここで鶴見さんが強調したのは転向=悪で非転向=善であるという態度を捨てるということでした。彼らにとって何が重要だったのか、それぞれを見つめていく。おそらく、今「転向」を問題にしても、何が語られているかわからない人が多いかもしれません。しかし、一旦ここで鶴見さんが取った方法を覗くことによって、我々の「選択」を見直すことに繋げられるのではないでしょうか。
わかりにくいのは、私たちは積極的に何かを選択してきたというよりも、選択することを巧妙に避けてきたと言った方が正しいと言えます。政治であれ、経済であれ、文化であれ、我々は積極的な選択を避けることによって、今の状況を作ってきたと言えます。その結果を起こったことは、コンフォーミズム=現状追認を続けたが故におこった画一化です。システムがいい場合も悪い場合も、この「無作為に溢れた既存システムへの依存体制」は、適切な変化を拒否しているように見えます。我々がなぜ、この不作為を選択し続けるのかは、それぞれに問われた方が良いと思います。難しいかもしれませんが、精神史的に捉える仕事が一般的になれば良い。個人的にできることはすくなからずある、精神史を描こうとしている人たちを取り上げることでしょう。
アレックス・カーは歴史における解釈と実証主義をバランスさせて、歴史とは「現在と過去との間の尽きることの知らる対話である」と述べています。そういう意味では、今の時代は、現状の文脈を踏まえた形で、歴史を解釈することがあまりされなくなった。それは、例えば「戦後」という言葉が非常に軽く、中身が薄い言葉として使われているという形で現れています。歴史の本は相変わらず、出版されていますし、いわゆる実証的な研究の成果も色々出ているようですが、歴史から見て、我々が今、どのような立場にあるのかを議論することからは少し遠い。歴史からある種の物語を取り出すことについては、ある種のタブーすら感じます。おそらくはある種の政治的なレッテル張りが起こりやすいからでしょう。そのような見えないタブーを超えて、少なくない人が共有できるような共通感覚としての歴史語りが厚みをもって存在することを私は望みます。それは、変化が必要な時は変化するという健全さを、個人のレベルでも社会のレベルでも取り戻すきっかけの一つになると思うのです。
一方で、様々な形で、積極的に過去を見つめる人たちが今でも存在しています。例えば森まゆみさんの『暗い時代の人々』はまさに現在との相互作用と言うにふさわしい、重要な本だと思います。私が現在と過去をつなげる上で参考にしている中島岳志さん、彼も優れて現在と過去の相互作用を意識している人です。中島さんは非常に優れた歴史家と言えます。。
いろいろ現在の状況を見ていると、鶴見さんの存在は、とても稀有だったなと感じます。歴史を語る場合、大きな政治的な流れが問題になってしまうこと多いと思いますが、鶴見さんの姿勢は常に、日常における感覚と、どこか結びついているところがある。言語行為として、手触りのある記述が今、どこまでできるか、非常に興味深い問題です。なかなか難しいでしょうが、一つの試論として、展開する価値はあるでしょう。