中村雄二郎さんの一連の著作のコアになっていることに、西田哲学の位置づけがあります。
中村さんは、三木清の『パスカルに於ける人間の研究』が哲学に入っていくきっかけの一つになったと書いていました。三木清は、現実社会において、哲学がもつ役割を強く意識した人だと言えます。『人生論ノート』や『哲学入門』は、一般の人が哲学に触れることを意識して作られた本でもあります。
三木清と中村さんの重なりは例えば『哲学入門』の次のような文章に現れています。
哲学が何であるかは、誰でもすでに何等か知っている。もし全く知らないならば、ひとは哲学をもとめることもしないであろう。或る意味においてすべての人間は哲学者である。言い換えると、哲学は現実の中から生まれる。そしてそこが哲学の元来の出発点であり、哲学は現実から出立するのである。
哲学が現実から出立するということは、何か現実というものを彼方に置いて、それに就ついて研究するということではない。現実は我々に対してあるというよりも、その中に我々があるのである。我々はそこに生れ、そこで働き、そこで考え、そこに死ぬる、そこが現実である。我々に対してあるものは哲学の言葉で対象と呼ばれている。現実は対象であるよりもむしろ我々がそこに立っている足場であり、基底である(三木清,哲学入門,青空文庫版,1940初出)
三木清は西洋的な哲学に直接触れた最初期の日本人です。そうでありながら、またそうであるがゆえに、現実を強く意識した人という意味では、現在において積極的に読み直されると面白い人だと思います。
その三木清の先生が西田幾多郎でした。三木清が、日本において西田幾多郎の存在の大きさを述べています。その理由は、西洋の主観に囚われすぎる考え方に対して、西田が違う捉え方を提起したことに共感したからと思われます。日本の哲学は、西洋の考え方を直接輸入するのではなく、独自に考えなければならず、その土台を西田がやったのだから、ひとまずはそこを通りなさいという感覚が三木にはあったでしょう。
話を中村さんの西田哲学の位置づけのところに戻します。以前に中村さんが考えたことを「「本来は存在しない普遍性」にとりつかれた、哲学を始めとした近代的な思考を批判し、異なる知のあり方を示すこと」と表現しました。中村さんは、異なる知のあり方として西田の<場所の論理>を位置づけています。
西田哲学の難解さは、その言葉の難しさもありますが<無>を扱っている、あるいは<無>を積極的に評価するというところにあります。そこには禅というか、仏教の影響があるのは明らかですが、態度しては懐疑、何かを疑っていると言えます。その何かは基本的には「自我」あるいは「自己」と言ってもよいでしょう。西洋において絶対的にあるものと考えられる「自我」に対して、直感的に疑いを持ちやすい。それが東洋的な思考の特徴ですが、それは一般的には言語化しにくく、<無>あるいは<空>などの形で述べられることによって、場合によっては神秘化されてしまうことがあります。西田の<無>は始めから主体が存在するのではなく、主体が生成する<場所>があると考えたと捉えることができます。主語の世界では、実体があることが前提になりますが、実体は述語的に形成されると言い換えることもできます。”行く”とか”使う”とかによって、一般的な”私”ではなく、その世界の特殊な存在として「自己」が生成されるという見方です。中村さんの場合、これを主語を中心にした世界から、述語を中心にした世界への移行という形に表現し直します。関係性が豊かになることで、秩序が生まれていく。人間によって作られる秩序をコスモロジーとよんでいるのです。秩序の自己生成と言えるような、哲学では比較的新しいテーマについて、不明瞭なかたちとは言え、西田は着手していました。中村さんはそこに三木清のテーマの一つである、ロゴスとパトスの統合の可能性を見出し、引き受けたと言えます。。
中村さんが描く世界、思考の対象には人類学的な世界があります。例えば、『魔女ランダ考』ではインドネシアのバリ島での、独自の世界観が紹介されています。生活の価値感が大きな物語の上にのっているという驚くべき世界。前近代の例として、ある物語宇宙の属する生活を示す一つの例であると言えます。その場所の持つコスモロジーは、人間が作り出した秩序として安定したものだと言えます。このような全近代的なコスモロジーを問題した人として、渡辺京二さんがいて、それを直感的に表現できた稀有な人として石牟礼道子さんがいました。彼らの問題意識は、前近代の礼賛というよりは、近代的な思考がもたらした生活にたいする変化の貧しさです。一方で近代的な視点から見ると、不合理と見えてしまうものも、述語世界という観点から見た場合に、積極的な秩序化作用があると言えます。今我々は、このような奥行きのある物語的秩序を求めていると思えるます。一方で、それに対しては「科学的」ではない、「実証的」ではないの一言で安易にしりぞけられるような知的環境のなかにあります。それについて、別の知があるという言説に厚みをもたしたほうが良いのではないでしょうか。