コミュニティを考える 序②

地域に関する危機感と期待がさまざま形で現れています。

危機感は、中核都市への人口集中と人口減少期を背景として、特定地域で、人の暮らしが持続不可能になっていく問題として顕在化しました。消滅地域の問題はイコール高齢化問題であり、そこには医療・介護をどうするのかという問題がセットで存在します。

期待に関しては、ローカル志向やまちづくりへの関心が若い人に広がっていることなどが挙げられるかと思います。その他、「里山資本主義」に代表されるような、単純に経済的な商標だけでは測れない地方の豊かさの再確認や、様々な起業のチャンスとしての地域ビジネスという観点も注目が見られます。地域おこし協力隊という制度も生まれ、国もその流れをバックアップしています。

このような背景を意識して、自分自身がどのような関わり方がありうるかを、実際に現場に入ってたり、様々な人に話を聴いて、この一年弱、考えてきました。私の関心は、社会的な問題が確実に存在するという一方で、他の記事で書いたように、インターネットが持っていた、「ネットワークで有機的につながることで生まれる新しい動き」に対する期待感がありました。地域に対して興味を持つ人は、昔ながらの伝統共同体を大事にしたいというよりも、大企業のなかで歯車になるよりも、個人として活動できる範囲のなりわいを見つけたいという思いが強いでしょう。様々な情報をめぐり、ネットワークを駆使することで、その思いを実現する。そんな理想が地域に対して持っていたイメージでしょう。多少冷静なところはあったとはいえ、私自身もそのような憧れを持って地域に入っていきました。

一方で、私が気になったは、人びとの関心と現実がそれほどうまく噛み合うか、ということでした。地域で自分のなりわいを獲得することは、人との出会いに依存することも多く、偶然の要素が大きい。すなわち、ある一定のメソッドがあるわけではありません(SNSなどを使っていて、怖いと感じたのは確実なメソッドがあると錯覚してしまうことです)。

もちろん成功事例も多く存在すると思われますが、当然失敗や、思いがかなわないことも多い。私は主に福祉領域で活動していましたので、そのような偶然性の高く、強いかどうかわからない思いに依存するような活動は、否定はできないけれど、社会的な活動としては心許ない感じがしました。

突き詰めていくと、良質な成功事例に隠れて、様々無理が、地域活動と、地域活動への期待に存在しているように思えました。それはコミュニティの問題というよりも、雇用の問題や、家族の問題、経済の問題、都市の問題、制度の問題、様々な問題の複合としてあるものです。一方で極度に単純化された、人びとの「行動する動機」があります。このずれのようなものを少し考えてみたいと思います。

福祉分野では確かな「動機」を持って活動している人たちがいます。一方で制度が全くそれをバックアップしきれていない、あるいは長期的な視野がないために、最終的にはそれぞれの活動が良い帰結につながっていかないということがあるような気がします。ここの意図は正当な理由があるのだけれど、全体で見ると間違った方向になっている、この合成の誤謬は、官僚的な縦割り組織でこそみられますが、地域活動においても、やはり起こりやすい。

これは、コミュニケーションの問題もあるのかもしれないですが、もう一つ、概念的な整理が不十分なところもあるように思えます。今我々がどういう状況にあるのかを、少し言語化していくフェーズがもっとあってもいい。おそらく、研究者の人たちによってそのようなことがなされているはずですが、なかなか複雑な状況を説明してくれるものは、そう簡単にはみつかりません。

ちょっとしたエッセイ的な試論として、コミュニティについての議論を展開してみたいと思います。