感性と理性の統合『共通感覚論』中村雄二郎

中村雄二郎の『共通感覚論』は「感覚の統合」がテーマになっています。認知科学や神経科学、心理学、文学などに言及がある不思議な本です。

意外にタイトルに惹かれて手にとる人も多いのか、割とどんな本屋さんにもおいてあるように思います。少し読み進めると、この本が日常生活において、自明としている前提の曖昧さを問題にして、それを成り立たせているのが何なのかについて、哲学的に論じている本であることがわかってきます。冒頭の文章は比較的、固有名詞や特殊な概念はそれほど多くありません。 複雑化した世界に積極的に対処して活動するためには、様々な知識資源が必要なわけですが、それは自分自身のものにしなければ意味がないという説得力のある議論が冒頭に展開されます。

中村さんには、考えることは複雑な世界において秩序を見言い出すことである、という姿勢が見られます。中村さんは「意味」が生成されることにこだわっているのです。我々が日常世界の中で意味を見出すこと、それがよき知のあり方であると考えました。すでにある概念に固執し、それが普遍的に存在するかに振る舞うような哲学に対しては、批判的な姿勢を取らなければならない。中村さんがパスカルの「哲学をバカにすることが、本当に哲学すること」という言葉を何度も引用するのはそのような態度から来ています。

共通感覚=コモン・センスはアリストテレスにおいて、五感を統合するものという意味で使われていた言葉でした。味覚や視覚、聴覚などが分かれている一方で、「甘い音色」のような表現が生まれてくる。この時に、それぞれの知覚とは異なる感覚が動いていると考えたのでした。アリストテレスはさらにすすんで、共通感覚には感性と理性を結びつける働きがある捉えていました。

その後共通感覚は「常識」に近い意味を持つようになります。社会的な常識、あるいは良識を表します。コモン・センスという場合にはこちらがイメージされることが多いでしょう。どちらにせよ、我々が生きる世界の自明性、当然そうだとみんな思っていることが成り立つために必要不可欠な感覚です。共通感覚を成立させているのは、繰り返しの経験の中で作られた普遍性のようなものということができます。そして、その繰り返しの経験を、確かなものにし、他者も同じように思っている相互主観的な状態を成立させているのは、やはり統合しようとする働きが生じていると考えられます。

その統合する力が何なのかは結局のところ証明はされません。本来それは神経科学領域の仕事になるでしょう。ただし、中村さんはドイツの精神病理学者であるブランデンブルグの統合失調症患者の事例を導きの糸にします。この患者は「温度の高低は分るが、熱い寒いという感じはどうもピンと来ない」といいます。この患者は感覚器を通した刺激を単なる感覚刺激の束として、表面的に突き刺さってくるカオスとして取れなくなっています。通常我々はそのような感覚を統合することによって、一つの世界が存在すると認識することが出来ている。空間や時間を認識する上において、このような感覚的統合作用があることは間違いまちがいないといのが、ここでの結論です。

本書では、感覚的統合作用がアリストテレスから始まって、コモンセンスについての変化を追っています。少し触れましたが、ポイントは良識を含むか含まないか。常識ということにはあまり感情的な価値判断がなく、人々が共通してもつ感覚、共通する主観のようなものですが、良識は、それぞれの文化の中で、正しいとか好ましいとか、感情的な判断が含まれているという違いです。

中村さんには人間の理性的な部分と、情念的な部分の両方を見る姿勢があります。多くの哲学者は理性の焦点を当てがちなので、情念を考えることが、中村さんの特徴的なところです。デカルト派というべき、理性の領域を重視し、「常識」部分について説明する人々の流れは、最終的にはチョムスキーによって、言語的な構造化=普遍文法として示され、それを一つの結論としています。一方で、感情の面においても無意識の領域で構造化された世界があるという考え方を採用し、別のメカニズムが働いていると結論づけます。どちらも、対立するものではないが、情念部分は科学的には完全に解明されるものではないと捉えたといえるでしょう。その上で、情念的な部分に踏み込んで考えみるというのが本書の後半になります。