中村雄二郎『情念論』 合理と非合理

中村雄二郎が非常に今っぽいと感じるのは、人間が「合理主義を理想としながらも、非合理的な側面、欲望や怒りや差別的な感情を否定しきれない」存在であることから目をそらすな、というメッセージを哲学の世界に投げかけつづけたところにあります。

経済の長期的な停滞に対する不安、それと密接に関わる政治的な非寛容と民主主義の不安定化、短く言えばそんな状況です。合理的に考えるが正しいのはわかっているけれど、世の中は非合理に動いているではないか、そんな声が満ちてるように思います。経済的合理性によって世の中をリードしてきた経済学の領域でも、行動経済学という、人間の不合理性をテーマにした領域の重要性が認められてきました(2017年のノーベル経済学賞は行動経済学に関する研究に送られました)。

中村さんの初期の著作に『現代情念論』があります。この本が出版されたのは1962年です(1994年に増補版が講談社現代文庫から出版されています)。今となっては当時の思想的状況を想像し難いですが、時代としては高度成長の真っ只中。公害などもまだそれほど一般に問題視されてはおらず、経済発展の負側面を意識する人も少なかったでしょう。そんな時期に中村さんは「科学的思考として合理主義」に対し、一定の問題提起をしています。そう考えると、なかなか稀有な存在だったことが推測されます。さらに中村さんはその後、一貫して同じ土台で議論を進めているわけですから、よくよく見ておいたほうが良いのではないかと思っています。

『現代情念論』はデカルトの『情念論』が下敷きになっています。合理的な思考の土台を作った哲学者、体と心を分離して、分析的な人間観の土台を作ったと言われる、「われ思う故に我あり」のデカルト(1596生-1650没)です。そんなデカルトに情念というドロドロした感じのするのは意外に思われます。デカルトはポスト・ルネッサンス期の宗教的な見方に対して、自然科学的な見方が出てきた時期の哲学者で、ある意味ではそれまではとは異なる捉え方で人間の精神を捉えました。デカルトは、精神と身体は別々で考えたほうが良いと考えたわけですが、それはあくまでも方法的問題です。デカルトは人間における明晰な理性を獲得するために人間の「感情」を考察しました。身体と心が密接に関係しているのが感情であると考えています。中村さんが展開しているのは、この自己完結的に感情を考えるのではなく、社会的な関係の中において情念を考える必要があるという議論です。そこでいう情念は無意識、それもどこか他の人間とも共有しているような無意識を想定していると言えます。

いわゆる科学的な思考では、実体として観察できるものを対象とし、それとは異なる観念的なもの、形而上学的なものをしりぞける態度をとります。この簡単にしりぞけられてきた部分に対して、思想上の「欲求不満」を起こしてこなかったか?と中村さんは述べています。機能主義的に実体を観察するならば、見えないものがもつ機能も十分に考えてみたらどうだろうという提案です。中村さんはスザンヌ・K・ランガーという人の『シンボルの哲学』という本に触れて、新しい記述=現代情念論の必要性を述べています。引用の引用になりますが、少し示します。

およそ或る時代とか、或る社会とかの知的な地平にとり入られる経験の定式化は、私の信ずるところでは、事実や欲望によって決定されるというよりも、むしろ自分たちの思いがけない経験を自分たちの納得行くように分析し、記述するために利用できる基本的概念によって決定されている。・・・・・・・新しい観念は光があたらないうちは我々に全然姿をあらわさなかった眼前の存在を、くっきり照らし出す光のようなものである。(スザンヌ・K・ランガー,『シンボルの哲学』,1960,岩波書店,強調は引用者)

ランガーは、このような意味での概念を設定することによって、祭りや、芸術、迷信などの人間特有の不合理の部分と、同じく人間特有の合理的な部分である科学的精神を同列に扱うことが出来ると考えました。人間にはシンボル化の欲求があり、どちらもそれに従って展開される表現であるという考えです。

中村さんはこのように「シンボル」を設定することによって、一元的に人間について説明することはしていませんが、人々が自分自身の経験を記述する際に、合理的な整理だけをするのではなく、不合理な整理をしていると捉えました。中村さんが文化人類学や心理学を参照することが多いのは、本来、人々が直面する問題を考える際に、そのような見方をしなければ、問題を捉えられないと考えたからです

『現代情念論』は、上の様な議論とともに、日本の思想的な伝統に対する批判も含まれています。日本の哲学の状況が、西洋哲学を受け入れることだけに終始し、それぞれのテーマに分かれて、互いに全く理解できない状況になっていることに対する批判です。日本の文化的状況を踏まえて上で、哲学、あるいは哲学史において考えるべきものがある、その際に、哲学以外の経済、心理、政治、文学などの領域と対話も必要になってくるだろうという指摘です。 重要なのは、領域を超えて議論し、共通の問題がなんなのかを見出すことだと述べています。

これは哲学領域にかかわらず全ての領域に存在する問題です。そして今もなお、その重要性は存在しています。変化することが求められているという点においては、領域を超えた問題意識の共有は、今のほうが望まれているといえるかもしれません。 中村さんは哲学という学問が、細分化し、コミュニケーション不全に陥り、時代状況への批判ができなくなっていくことは問題が大きいと述べています。なぜならば、独断的な理性に対して批判的な態度をとり、絶えず自分たちの生きる場に知をつなぎとめるとい役割を哲学者が持っていると考えたからです