コミュニティを考える 序①

2017年4月に私は10年近く務めた会社をやめて、地域活動的なボランティアに参加することを通じて、社会をこれまでと違う見方でみる試みを始めました。

会社を辞めて関わったのは、ひとことでいうとコミュニティに関することでした。読書を含めて、色々考えたことがあったので、ちょっとまとめていこうと思います。

WEBが可能性に満ちていたころ、同時にネットワークのちからが強調されていました。アルバート・ラズロ・バラバシ『新ネットワーク思考』やマーク・ブキャナン『複雑な世界、単純な法則』はネットワーク科学が見出した一見ランダムに見えるつながりに秩序があるということを示しました。ネットワーク理論が後押ししたのは、いわゆる昔ながらのしがらみがあるコミュニティではなく、開かれたコミュニティで、複数のコミュニティに所属しながら、新たな関係を生み出していくというようなイメージ。私もそのような意味でインターネット時代のコミュニティに憧れに近い期待を抱いていました。

『複雑な世界、単純な法則』に紹介されていて、知っている方も多いだろう概念に「弱い紐帯」があります。アメリカの社会学者マーク・グラノベッターの説で、家族や上司などの近い関係よりも、知り合いの知り合いのような関係の方が、新しくて価値のある情報がもたらされやすいという説です。グラノベッターの考えはしがらみを含めた人間関係を離れて、新しい出会いを求めることを正当化する見方でもあり、やや一人歩きしやすい所があります。家族や職場での関係性、地域での関係性がどうなのかとは本来別の話です。やはりどちらか一方を大事にすればどちらかが疎かになる。インターネットの登場その他の流れは、新しい出会いと新しいコミュニティに期待する方向で動いたと言えるでしょう。果たしてコミュニティはこの期待に答えられたのか。

個人的に地域福祉のコミュニティ形成の現場に関わってみて、いろんなことが見えたような気がします。
どれだけ一般に知られているかはわかりませんが、介護や医療の領域で地域包括ケアという考えが進められています。その枠組のなかで、介護に関するサービスを市町村が主体となって、事業をつくるという枠組があります。住民がボランティアで、高齢者の居場所づくりをするという枠があり、そこに参加して色んな方に話を聞くことができました。

地域包括ケアの一部である、地域での事業(総合事業)は、「助け合いの精神の復活」が組み込まれています。これは政治的な意図で、必ずしも住民が望んだからそうなったというわけではありません。端的に財源が確保できないために、ボランティアセクターの頑張りに期待したいという意図であると考えざるを得ないところがあります。そんな背景があるため、現場で矛盾が出る可能性は高いわけです。このような公共的な目的をもったコミュニティは、いわゆる社会運動に近いコミュニティになります。一方で地域活動でもありますので、自治会、市役所、社会福祉協議会などと連携したり、様々な人を顔の見える関係を作ってりながら、活動を継続していくことになる。一方で社会資源である人や組織、そして予算が、活動を確かに進めていくために十分確保できるかは大変怪しいところです。

このような状況に対して批判していくことは重要です。介護を初めて社会保障は非常に複雑で関心が持ちにくいため、テレビや新聞の一記事では扱いにくいでしょう。福祉の領域に適切な興味をもってもらうことの難しさは大変なものがあります。 一方で、ここにあるのはコミュニティの問題でもあるなと感じます。コミュニティという言葉が大事という一方で、なんとなくコミュニティという言葉に惹かれている人々のほとんどは、福祉の世界で求められているような活動には入っていきたいとは思わないのではないでしょう。

インターネットでの新しく、楽しい出会い、それを通じたコミュニティの形成は何を生み出していて、どんな限界があるのかも、十分に考える必要があります。そして、地域で新しいコミュニティを作ること、向かいあわざるを得ない地域課題があることを知ることで、もう一度どういう価値観のもとに人って集まるものかを考えてみるの良いのではないかと感じます。

専門領域でも、コミュニティについて考えている人たちは大勢いると思いますが、おそらくゆるい関心を持っている人たち〜現場でコミュニティ形成をやっている人たちまで、専門家にどんな知見があるかを知る人は少ないのではないでしょう。コミュニティという言葉について、さまよいつつある人達に、ある一定の見方を与えることは明らかに必要とされています。私なりに少しまとめていきたいと思っています。