中村雄二郎を読む 序

中村雄二郎を読み込み、彼の問題意識を再度、人々に届く形で整理してみたい。そんなことを考えて始めたのは結構前のことです。同じことを鶴見俊輔にも感じましたし、中井正一にもそういうところを感じました。これらの人たちは専門領域から離れて、自分自身で考えることの大切さと楽しさを伝えようとした存在ですので、全く消えてしまうのはもったいないと思ったわけです。

中村雄二郎は1925年生まれで2017年に亡くなった哲学者です。著作が出ているのは2000年代前半までで、なくなったのは最近ですが、最近の人で中村雄二郎に言及して人を殆ど知らないので、すでに忘れられた存在といって良いかもしれません。亡くなられたときも大きく特殊を組まれることもありませんでした。さすがにちょっと意外でしたが。

中村雄二郎を初めて読んだのは高校生のときで、おそらく『共通感覚論』か『述語集』だったと思います。はっきりいって全く読めてなかったと今になってみれば思います。中村の文章は辞書を引かないとわからない、別の本を読まないとその用語が何を示しているのかわからないという難しさは少ないと言えます。なぜなら、中村はそのようなことを哲学のあり方を批判し、違う哲学のあり方を模索した人だからです。ただ残念ながら、それなりに他の思想家の書籍を読んでなければ、中村の取っている立場がいかに特殊であるのかがわかりません。そしてなぜ中村がそのような態度をとっているかがわからず、その意図が汲み取れない。まさに私が中村雄二郎の著作に出会ったときは、その部分が全くわかっていませんでした。

中村が意図したのはひとことで言うと、「本来は存在しない普遍性」にとりつかれた哲学を始めとした近代的な思考を批判し、異なる知のあり方を示すことでした。様々な知的領域を超えてみせることによって、中村は、専門家が知らない人をねじ伏せるような知とは異なる知がありうることを方法に示してくれています。この批判的な態度は、いつの時代にも有効であります。とりわけ、専門分化とシステムの形骸化が同時並行的に進んだ結果、システムが限界に来てもまったく変化できないという現状においては、そのような態度がとれるのだと知るだけでも非常に価値があります

一方でこのスタンスが優れているやっかいなのは、何を問題にしているかがわかりにくい点です。中村の著作から多くを学ぼうとするためには、哲学的な著作に多く触れていて、全体的な流れを理解しつつ、その知のあり方に違和感をもつ必要があるように思えます。中村の意図は日常生活の中で考えるために、どんなことを考えていけばよいのかを、魅力的な形で示してきたと思われますが、そこに入っていく入口は非常に狭い。

中村には『哲学の現在』という哲学的な用語や哲学者などの固有名詞を排して書かれた本があります。 『哲学の現在』は三木清と、三木清を通してパスカルの影響を強く受けた中村の姿勢が色濃く出た良書です。1977年に出た本ですが、今読んでも非常に考えさせられ、一部では勇気づけられるところがあります。私はこの本を読むと少し元気がでます。 しかし1977年にでた『哲学の現在』という題名の本はおそらく誰も手に取りませんね。これは少しもったいない。ちょっとその雰囲気を残すためにちょっと引用してみます。

私たちが環境との安定した関係にあるとき、また社会の支配的な価値観を信じ、そのうちに生き甲斐を見出しているとき、ほとんどの自分をかえりみないですむ。ところが、これまで不動なものと思っていた社会の支配的な価値観が揺らいだり、あるいは私たちがその価値基準の支配するところに生き甲斐や意味を見出しえなくなったりするときがある。それほどではないにしても、そこに或る物足りなさ、空しさを感じるようになったりするときがある。その場合私たちは、どうしもて自分をかえりみざるをえない。そして、なんとかして考え方や生き方の確実な基礎を見出そうとすることになるだろう。このように考え方や生き方の確実な基礎を見出そうとするとき、当然私たちは、これまで自明なもの、不動なもの、確実なものとされてきたあれこれをあらためて問いなおし、疑うようになる。それは批判のための批判でもなければ、懐疑のための懐疑でもない。あくまでもそれは、確実な基礎を求めて私たちが現実の中で積極的に考え、充実感をもって生きていくためのものである。(中村雄二郎『哲学の現在』岩波新書,1977,強調は引用者による)

いかがでしょうか。第一章「哲学の現在」の一部分です。パスカル『パンセ』っぽい感じがします。まさに現在の私たちにも届く言葉ではないでしょうか。わかりやすい部分もわかりにくい部分も、中村が提示してきた「問いかけ」の数々を、我々が生き生きとした形で自分の「問い」にできる、そんな文章が必要になってくるのではないかと私は考えています。