さて引き続き『「聴く」ことの力』に触れて、書いてみます。
前の記事ではエッセイ的方法について書きました。鷲田さんは「<試み>としての哲学」という章の終わりをドイツの哲学者、テオドール・アドルノのエッセイ論で締めくくっています。
アドルノは非常に難解で知られている哲学者・批評家で、大文字の真理としての哲学を拒否した思想家の一人です。鷲田さんがとりあげているアドルノのエッセイに関する文章では、いわゆる哲学の客観性について全く信用できないという態度に満ちています。「網の目ように張り巡らされた客観性が、その実主観にすぎない」とまではっきり言い切ります。
アドルノにとって、エッセイの方法はぐるぐる周ることであり、「全てを網羅することにあくせくしているみみっちい方法」に比べて、はるかに緊張感があると考えているのです。面白いのはエッセイのやり方が「異国にあってその国の言葉をどうしてもしゃべらないといけない人のやり方」と似ている、としていることです。辞書を引かずに何遍もの同じ言葉と向き合う。それによって、確実にその言葉の意味を獲得するわけです。これは体系的な知識、あるいは体系だった方法を採用した場合には、排除されがちなやり方です。
エッセイは体系立てることを拒否する方法です。断片を見ていくことによって、断片たち、断片に関する概念に相互作業が生まれて、統一的なものが見えてくる。そのような作業がエッセイにはあるのです。
学問が優勢で、エッセイが衰退するという事態があるならば、おそらく人々が「ぐるぐる周り」を拒否しているということです。あるいは知らない間に、それをさせないような環境になっていることもあるかもしれません。何かを学ぶときにこの「ぐるぐる周り」がないということはありえない、と私は思います。ぐるぐる周りは個人的な経験とも言い換えられます。経験がなければ学びは成立しません。エッセイというのは、学問と経験との中間の部分を厚くし、それらを結びつける役割があると言えます。
学問が形だけあって、中身がないかどうかは、その周辺に「ぐるぐる周り」をする人がいるかどうかで判断できるでしょう。そうでなければ、それは単なる信仰や神話のたぐいであり、それらを受容する態度は、危機の時代を進める大きな力となってしまいます。
以上のことから、エッセイがなぜ不人気なのかも、なんとなく見えてきます。ただし、困難な時代になるほど、自分で考えることを拒否する人間と、徹底的に考えて、行動してみるという人たちに別れていくだろうと感じます。後者の人たちに向けて、届くような言葉を考えていきたい。その際にまずは、それらの人たちの話を「聴く」必要がある。そのような場はまだ、ほとんど存在しません。思索的エッセイがそれを切り開くということを信じたいものです。
結局これまでの紹介は全て『「聴く」ことの力』の一章のみの紹介になりました。他の章も大変示唆に富むので少しずつ紹介したいと思います。