エッセイという方法 鷲田清一『聴くことの力』

哲学の領域でも一般的な読者を獲得している人がいます。鷲田清一さんはその代表的な存在です。

鷲田さんの学問は現象学に始まっているようですが、現象学というどこかつかみにくい哲学領域で色々考えた結果、ある種の哲学批判に取り掛かります。

代表的な著作である『「聴く」ことの力』は哲学的な言葉をあまり使わずに、哲学の危機を見つめ、人が現実を受け入れることを、ケアする思考のあり方があるのではないかということを探っています。

『「聴く」ことの力』の副題は「臨床哲学試論」です。臨床哲学という言葉で、鷲田さんは自分の哲学を、個人に近づけました。哲学を実際の起こったことを受け入れる、その方法として切り替えようとしたと言えるでしょう。

フッサールの現象学を、鷲田さんは「あらゆる学問の基礎づけのための哲学」として、その虚しさのようなものを次のように表現しています。

現象学を創始したフッサールは、ある意味でアカデミズムの哲学、論理学や認識論など諸学問の基礎を論じる基礎学の最も典型的な哲学者だったが、しかしその晩年にひとりの弟子にこう漏らしたという。じぶんは幼少のころ、小刀をもらったことがあるが、その刃先があまり鋭くないので、切れ味がよくなるよう、じぶんでそれを何度も何度も研いだ。が、研ぐことに夢中になっているうちに、気がつけば刃は何も切れないほどすり減ってしまっていた、と。そうして悲しげな表情をしたという。

哲学の中でも近代西洋哲学は、近代的な合理主義と理性、主体としての自己が生み出す困難の中で、もがき苦しむようなところがあるように思います。それにどこまでつきあうのかという距離のとり方は多様であっていいのではないでしょうか。厳密につきつめない哲学の領域がありうるはずです。

私は「臨床の知」という表現と、考え方に非常に興味を持っています。今を生きる我々には「社会の中で生きるための言葉」が不足しているように思えるからです。他人の話を「聴く」ことができない。

哲学的なエッセイという分野を、軽い読み物と思わないで欲しい、と感じます。本書にも書かれている散文的な文章に現れる断片的な問い達。それらは哲学的に重要な意味を持ちます。鷲田さんはデヴィット・ヒュームのエッセイに関する考えを紹介しています。

文人と世人のあいだの橋渡しをしようというヒュームがそこで最善の方法として採用するのは、エッセイを書くということである。ここでエッセイといわれているものはおそらく、今日でいう随筆に比較的近いものであろうとおもわれるが、(略) 「エッセイ」は随筆ではなく、むしろ本格的な試論というほどの意味ももっていたと考えられる。

ちなみに私は、自分と誕生日が同じこのヒュームという哲学者に、なんとも言えない親近感を覚えます。考える人と日常を生きる人をつなげる言葉があるはず、それがが気難しくも社交好きのヒュームが考えたことだったと思います。そのことを鷲田さんは「聴く」と表現したとも言えるでしょう。

できれば私もそこに加わりたいと思うがゆえに、文章を書き続けているとも言えるのです。

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