長田弘さんという詩人がいます。私は長田さんの詩というより、散文が好きで、こんな風に文章がかけたらなと思う人の一人です。文章のリズムということもありますが、長田さんの文章の良さは、背景に哲学的な思索を含みつつ、言葉の運びが詩的なところにあると思います。。
このブログ名の「記憶のつくりかた」は、詩人である長田弘さんの詩集からとりました。『記憶のつくり方』(朝日文庫)という詩集のあとがきに長田さんは以下のように書いています。
記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことではなく、むしろ過ぎさらなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうち確かにとどまって、じぶんの現在の土壌となってきたものは、記憶だ。記憶という土の中に種子を播いて、季節の中で手をかけてそだてえることができなければ、ことばはなかなか実らない。じぶんの記憶をよく耕すこと、その記憶の庭にそだってゆくものが、人生とよばれるものなのだと思う。(長田弘『記憶のつくり方』,2012年,朝日文庫,p129)
今の時代は、時間をかけて育っていくものを、見つめ続ける、あるいは感じることが難しくなっているかもしれないと思うことがあります。以前に作家の津村記久子さんがインターネットから「本に戻った」という話を紹介しましたが、インターネットの情報は、時間をかけて変わっていくものを中々見つめさせてくれません。むしろ、その瞬間が満たされればそれで良いという様々な「コンテンツ」を、みんなが競い合って提供しているわけです。全てがそうであるわけではないのですが、インターネットの大部分は広告的性質があり、基本的には時間の奪い合いをやっているので、人の注意を引くようなしかけが大量に埋め込まれているわけです。
長田さんのいうような記憶はそんな場所では育ちません。津村さんはそこで「読書に戻った」わけですが、そんな風に意識的に読書に入ってくれる人が増えるといい。必ずしも読書である必要はありませんが、本の世界は記憶を育てる環境としては非常に豊かです。
私の読書に関するイメージが、長田さんに近いことも、親しみを覚える理由になっていると思います。『なつかしい時間』という本の中で読書とは本に親しむ習慣だと言っています。先程の記憶の話もそうですが、長田さんは習慣にこそいろんなことが含まれると考えています。習慣は自分がまわりの環境と色々やりとりしながら、ゆっくり作られていくもの。読書を本の内容を捉えることと考えることが、子供を読書から遠ざけていると長田さんは書いています。わかるかわからないかではなく、経験として読書が残るためには、そのような感覚を持っておくことが大事。まさに私も読書はそういうものだよなと感じます。
このブログが少しでも、そんな読書に近い読み物になってくれといいと思いつつ、長く続けていきたいと思います。