渡辺京二『逝きし世の面影』

前回は鶴見俊輔さんについて触れました。どうも私は在野の研究者や思想家に対して非常に強い尊敬の念を抱く傾向にあります。大学に所属せずに、学問的な探求を続けるという態度に、失ってはいけない大切な何かを感じるのだと思います。

人にとって、知的好奇心は非常に強力なものであるように思います。津野海太郎さんの『読書と日本人』を紹介したときにも書いたように、戦前、戦後の日本には今では専門家の領域と呼ばれるような本を、多くの人が読んでいたという時期がありました。どれほどの層がいわゆる古典や思想と真剣に向き合っていたかわかりませんが、知識欲と一体となった強い読書欲が存在したようです。

鶴見さんを始めとして、私が興味を持つ在野の知識人たちは、ある意味異常なほどの知的好奇心を持っていたことは間違いないでしょう。それ以上に大きいのは、専門領域に固執せざるを得ない専門人の限界をよくわかっていることだと思われます。権威的なものに憧れる感覚と、権威に対して安易に迎合してしまう感覚の組み合わせ。あまりにも起こりやすいこの組み合わせに、批判的な眼をもつことはどんどん難しくなっています。いわゆる昔ながらの読書人として生きたきたご高齢のかたの中には、この変化に対して大変な危機感を持っている方が大勢いるかもしれません。そんな人はもうほとんど存在しないと、いわれそうですが、そんな外には見えてこない声もあるだろうと私は期待しています。

日本において、<反権威主義的な態度>=<専門領域に閉じこもる人間への批判>と、<民衆の知的好奇心への期待>がセットになっているという系譜が存在するように思います。私が影響を受けた鶴見俊輔さんにはわかりやすくそういう側面が見られます。

もう一人、私の好きな在野の知識人に、渡辺京二さんという方がいます。渡辺さんは歴史家、思想史家とよんでよいでしょう。著作は江戸末期から明治に関するものが多く、北一輝と宮崎滔天の評伝があります。評伝的な文章を重視するという点に関しては、鶴見俊輔に似た所があります。ただし、渡辺さんに関心は、鶴見さん以上にわかりにくいように思います。渡辺さんは、日本の中にある思想、あるいは思想とは呼べないような生活感覚を継ごうとしているのではないか、私にはそんな風に思えます。歴史の記述に関しては橋川文三、思想的な源流であった吉本隆明と谷川雁、自分自身が世に送り出すきっかけにもなった石牟礼道子など、渡辺さん は様々な自分の周りの影響をうまく編集して、ある種の価値を描き出そうとしているのでしょう。

渡辺さんには『逝きし世の面影』という本があります。今でも多くの本屋さんで置かれているこの本で、渡辺さんの名前を知っているという方が少なからずいるようです。この本は渡辺さんの著作の中では読みやすく、題材に面白さもあって、おすすめです。渡辺さんの本の中では異例に売れた本のようで、1998年に出されて、2005年に平凡社ライブラリーに入りました。

『逝きし世の面影』は幕末から明治に日本に訪れた外国人が残した資料から、当時の日本人がどのような暮らしをしていたのかをまとめた本です。

平凡社ライブラリーのあとがきで、渡辺さんは売れたことをよろこびながら「日本は良い国だった」という話ではないことを言っています。一定数存在する「日本はすごい国」と威張りたい人がいることに落ち着かない気分だったと書いています。

私はたしかに、古き日本が夢のように美しい国だという外国人の言説を紹介した。そして、それが今ばやりのオリエンタリズム云々といった杜撰な意匠によって、闇雲に否認されるばきではないということも解いた。だがその際の私の関心は自分の「祖国」を誇ることにはなかった。私は現代を相対化するためのひとつの参照枠を提出したかったので、古き日本とはその参照枠のひとつにすぎなかった。

渡辺さんは、幕末から明治にかけて外国人が見た、ある意味理想化された日本を、前近代がもつ可能性の一部として提示したのだと思います。近代化というもの生活を見えにくいものにしていることに対する問題提起のようなものです。

例えば、オリファントというイギリス人の以下のような記述。「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべき事実である。」このような印象は表面的な見方であると渡辺さんは強調しながら、近代人であるオリファントが衝撃を受けたことを紹介しているのです。あとがきに書かれたようなことはやや読みとりにくい。

この本は渡辺さんの入口に大いになりうるとは思いますが、この落とし穴にはまらないようにしない限り入口にはなりません。入口の先にこそ、様々に考えされることがたくさんあるのです。

鶴見さんも編集の重要性を強調していましたが、渡辺さんも編集者で、自身の著作も非常に編集的な側面があると感じます。在野の知識人が優秀な編集者であるということはある意味では必然性があるでしょう。その話はまたいずれしたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です