前から気になっていた中井正一を今読み込んでいます。
中井正一は1900年に生まれ、戦前は京都大学で深田康算のもと、美学を学び、深田の没後は『深田康算全集』の編集の中心となりました(深田康算は西洋の美学を整理した日本における美学研究の先駆者)。アカデミズムでの美学研究に従事していた中井は、1933年、滝川事件という思想弾圧事件をきっかけとして、活動家としての側面を強くしていきます。
戦後は、アカデミズムとは距離をとり、尾道市の市立図書館長に就任するなど、社会教育活動に従事しました。その後、国立国会図書館副館長に就任し、国会図書館設立に尽力した人でもあります。
中井正一の面白さは、戦後すぐの時期に、一般の人たちに語りかける言葉を探しつづけたことにあると私は感じています。それ以前に行っていた美学研究と、集団に対する独自の見方が、重なり合って形になったのが『美学入門』という本です。この本は1951年に書かれ、1952年に中井は胃がんで亡くなっています。
中井正一には短いエッセイ的な文章が多いです。中井さんの文章は青空文庫で読めますが、ほぼ全てエッセイ的な短い文章です。これには色々な面があると思いますが、思い切っていってみると、中井正一はスポーツマンで、実践主義者だったことが大きいような気がします。(スポーツマンというところは「スポーツの美的要素」という短い文章によく出ています。気が向けばとりあげてみます。)
中井正一には鶴見俊輔との距離の近さを感じます。お二人とも論理実証主義のような、科学的思考に近い哲学を深く理解しつつ、経験を重視した批判的な哲学を展開しています。(鶴見俊輔の大学時代の指導教官が、論理実証主義の代表的論客であるカルナップで、中井正一の文章の中でもカルナップは概念の記号化をつきつめた存在として認識されています。)そしてなによりも、いわゆる体系的な思考ではなく、歴史的というか、間違いながら少しずつ進んでいくような思考の流れを重視し、エッセイ的な記述を重視した点に大きな共通点があります。鶴見俊輔は、アメリカの哲学といわれるプラグマティズムの原則である「マチガイ主義」を強調しました。これはチャールズ・サンダース・パースのFallibilismの訳で通常は可謬主義と訳されます。簡単に言えば、完全に正しい主張はありえないから、マチガイを修正しながら、徐々に真理に近づいていきますよという話です。人間の知識が経験に依存することを強調し、絶対的な知=絶対的な確信は危ないという批判でもあります。
中井正一と鶴見俊輔、この二人の態度は鷲田清一=アドルノのエッセイ論に触れたものとも非常に近いといえます。「エッセイは体系立てることを拒否する方法で、断片を見ていくことによって、断片たちに相互作業が生まれて、統一的なものが見えてくる」と書きました。なぜ、中井正一が、アカデミズムにこもることなく、一般の人に向けて言葉を工夫しながら、自分なりの確信に向かって、徐々に進んでいけたのか。その姿勢の背後には、鶴見俊輔のマチガイ主義的態度、鷲田清一=アドルノのエッセイ的方法に近い選択があったと思います。その上でまた、中井正一独特のものがあってそこが非常に興味深い。ちなみに鶴見俊輔は中井正一全集の編集に関わっています。
中井正一に「委員会の論理」という文章があります。この文章には様々ものが詰め込まれていて、驚く限りですが、問題意識は近代の思考における落とし穴の指摘です。なぜ集団が主体を失って形骸化してしまうのか。それを古代・中世・中世をつらぬく論理の変化を踏まえつつ、現代の大衆化がなぜ起こるのかを短い論考でまとめています。おそらく今となっては読み込まれないこの文章は、様々思考の源泉になってくれると感じます。
中井さんの文章は、青空文庫で読めますが、一冊購入するとすれば私は岩波文庫『中井正一評論集』をおすすめします。「委員会の論理」、「美学入門」など主要な文章が入っています。 私の好きな詩人の長田弘さんが文章を選んでます。なぜ長田さんが編者?となんとく嬉しく思いながら、私的には納得のピックアップでした。解説も平易な文章で素晴らしい。本屋・図書館で手に取る際はまず、解説から読んでみてください。中井正一の魅力が伝わるはずです。