大手メーカーで9年間働いたあと、どこにも所属しない時間をおきたいと思って、あまりお金を稼ぐということしない時間を過ごしています。
なぜそんな選択をしたのか、漠然とした思いがありました。日本にある形骸化した商業主義、モノは溢れているのに、ただただこれまでのやり方に固執してモノを作り続けるということから、離れて暮らす期間を持ちたいという思いです。
社会の中の一人の人間としてどうやって暮らしていくのか、日本ではこのようなイメージは圧倒的に持ちにくい。私の周りにいた人たちは、会社で少しずつ認められたり、結婚して、家族を作っていくことが、社会の一員として確かな道だと感じているようでした。私はとてもそのように素直に信じていることができなかったのです。
会社に所属していた頃も、NPOやNGOに顔を出し、ボランティアをしたり、また、本を読んだりして、社会的な問題向について考え続けてきました。個人としてそれにどうつきあうのか、あるいはだれとどんな風に集まって、未来に向かって進んでいくのか。答えはでませんでした。ただ、社会的な状況が大きく変化しているのに、それに対応しようとしない多数の個人と、何とか対応しようとするけれども、結局は変われない、大小の集団によってこの社会は成り立っている実感はありました。
そこで考えたのは過去を見つめ直すこと、でした。それは個人的な過去ではなく、日本という社会が歩んできた時間の変化がどのようなものであったのか、ということです。単に事実を追うだけではなく、変化の中で日本人が何を考えたのかを知っておいたほうがいいなと思ったのです。
私には何かを考えるときに、指標となっている人たちがいます。思想家の鶴見俊輔さんはその一人です。いろんな人に影響を受けていろいろ考えているわけですが、こんな風に”ありたい”なぁと思わせる人は以外に少ない。私にとって、可能であれば”こうありたい”と思わせる人です。
鶴見俊輔さん1922年生まれの思想家で、2015年に亡くなりました。政治運動家でもあり、『思想の科学』の立ち上げた一人で、以降50年に渡りこの雑誌に関わり続けました。大学に所属していた時期もありましたが、1970年の大学紛争での警官隊導入に反対して同志社大学教授を退職して以降は、大学には所属せずに文筆活動を続けました。『思想の科学』は思想をテーマとした月刊誌で、1946年に始まり、1996年まで続きました。鶴見俊輔、丸山眞男、都留重人、武谷三男、武田清子、渡辺慧、鶴見和子、7人の同人としては始まったこの雑誌は、一般投稿論文を載せるなど、普通の雑誌とは少し異なる性質をもった雑誌でした。
鶴見さんの書く文章は読みやすいですが、テーマとしては誰もが手にとるようなものではありません。それでも続けてきたということが面白い。なぜ鶴見さんが学者としてではなく、一人の物書きとしてあろうとしたのかは私にとっては大きなことです。詳しくは追々書いていきたいと思います。
『期待と回想 語り下ろし伝 鶴見俊輔』という本は鶴見さんが、質問に答えるという形式で、様々なテーマについて話している本です。(ちなみに解説は前回紹介した津野海太郎さんが書いています。)鶴見さんの考えが凝縮して、散らばっているようなそんな本です。そして、存在するかもわからない今の言論空間では、出会えない、重要なテーマが溢れているように私には思えます。
鶴見さん伝記のような仕事をいくつかしていて、その中で期待の次元と回想の次元を分けるという話をしています。この言葉が『期待と回想』という題名になりました。この言葉はレッドフィールドという文化人類学者の『ザ・リトル・コミュニティ』にあるもので、鶴見さんはこれに大きな影響を受けたといいます。当時の見方と現在の見方をまぜこぜにしないで、一つの歴史を回想の次元と期待の次元に区別して記述することを重視したのです。レッドフィールドは共同体の記述の方法としてこのことを述べています。
多くの歴史的な記述は回想の次元で、事実を見ていきます。一方で伝記、特に鶴見さんが関わった伝記(あるいは伝記的な仕事)は、その当時、その人物が見ていた可能性に着目しています。当時、感じていた未来の可能性をすることに、伝記の価値があるということでしょう。私自身、特に伝記を書こうというわけでもないのですが、過去に思想という領域にいた人たちが期待という次元、すなわちどういう未来を期待したのかという点について、着目して、過去を振り返ってみたいと考えたのです。
我々の期待の次元というのは、今非常に混乱しているのだと思います。あらゆる場面で形骸化が見られるのは、我々が期待したものを忘れて、できた形だけを守っているということにあるのかもしれません。その意味でも、もう一度、どういう領域かはわかりませんが、過去の期待の次元に眼を向けてみるのは結構意味があるのではないかと考えているのです。